「では、何を作れば良いのか。その答えが戦車だった。昭和37年、パンサー戦車を発売。(中略)」
「タミヤブランドは、もはや不動のものとなった。」

パンサー戦車を作る前に、不要になったプラスチック玩具の金型を拝借し、ベビーレーサーやベビートラックを作って食いつないだ話を省略したった2作品だけでタミヤブランドと名乗らせている所が随分と図々しい気もしますが…パンサー戦車を制作するに至った経緯は

『日本のプラモデルの主流は、木製時代と変わらず戦艦や飛行機でした。戦艦は1作品目で失敗してるし、飛行機は曲面だらけで金型にするのが難しい。そのぶんコストが高くつきます。
そこで2作品目は、ドイツのパンサー戦車にしようと思いました。パンサー戦車をモデルに選んだのは、情けない話ですが、形状が直線的で金型が作りやすかったからです。
ただ、少しでもアメリカの模型と差別化をはかりたい。新しい工夫を盛りこみたいと思いました。そこで、小型モーターで走る模型にしようと考えました。アメリカの模型は、確かにスケールモデルとしてはよくできていました。が、なぜかモーターライズ、つまりモーターを搭載した模型はなかったのです。パンサーは幅が広い戦車なので設計上、電池をセットするためのスペースを取りやすいという利点がありました。』

さらに箱イラストを、当時売れっ子作家だった小松崎茂先生に依頼し(依頼にあたっての詳しい話は長くなりますので、敢えて省略させていただきます。申し訳有りません。でも、なんでこれも出てこなかったんだろ…)、昭和37年の正月、パンサー戦車は発売。

『正月を過ぎても、パンサー戦車は順調に売れてくれました。子供たちの間で、クチコミ的に「タミヤの戦車はよく走るぞ」と評判になったのです。足回りがよく、砲塔の赤い豆電球を光らせ、ふとんのような不安定な盛りあがりのところでもグイグイ進んでいく。そこが子供たちにウケたいちばんの理由のようです。当時の動力模型にしてはスピードもけっこうありました。他社からもモーターライズの戦車が出されました。しかし競争させるとかならずタミヤのパンサー戦車が勝ちました。偶然だったのですが、ギヤーの比率が速く設定されていたのです。
そのうち、モーターライズの戦車模型の楽しさを少しでも普及させようと思い、「戦車模型・競技大会」と銘打ってレースを開催しました。こういうと、なにやらミニ四駆のジャパンカップのようですが、それぞれの小売店で適当にやっていただけです。
近所の子供たちを空き地や公園に集め、団ボールを敷いてコースにし、ヨーイドンで競走させるのです。集まるのは多くて20〜30人くらい。そして、戦車模型を持っていない子供たちがギャラリーとなって見守るという状況でした。』

 「そして、タミヤの次なる本物志向。それは、造形美の追求だった。リアルに塗装した戦車に戦士をならべ、細かい小道具や背景を置くことで、ひとつの場面を作る楽しみへと発展。そんなジオラマは、今度は大人を巻き込んだ一大ブームを生んだ。」

ジオラマブームより先に、スロットカーがブームになり、タミヤも高性能を追求したスロットカー、ジャガーDを発売したこと、戦士の人形についてアニメ作家の大塚康生先生から監修をうけた事について全く触れていないのはどういうことでしょうか。
重要な点をかなり端折っているのに怒りさえ覚えます。

「ミリタリーマニアをも唸らせる、この正確なディテールを、俊作は如何にして再現したのか?
俊作『おー!スゲーな、やっぱ本物は違うなーおい!』
俊作は、海外の博物館まで取材に出かけ、本物の戦車の細部まで細かく調査。(中略)」
「しかし、どうしても資料が手に入らない謎の戦車があった。それは、ソ連軍の戦車。なんとしても資料がほしい俊作が訪れた先は、無謀にもソ連大使館。しかし、当然(中略)門前払い。遂には戦利品を求め戦地イスラエルまで飛んだ。」

このへんには間違いはありません。本にも、アバディーン戦車博物館やボービントン博物館、6日間戦争のあとのイスラエル等に出向いて撮影したことが詳しく書かれています。

「そんな本物志向の勢いはとどまることを知らず、今度はスーパーカーに向けられた。昭和51年、時はスーパーカーブームの真っ只中。外見はもちろんのこと、何と外からは見えないサスやエンジンもそっくりそのまま再現されていた。これも、俊作の無謀な挑戦のたまものだった。(中略)」
「スーパーカーを本物どおりに作る楽しさがうけ、大絶賛された。」
「さらに俊作は、同じボディをそのまま利用してラジコンカーを発売。憧れのスーパーカーを自在のスピードで操れるタミヤのラジコン。なんと、10万台以上を売り、一大ラジコンブームを巻き起こしたのだった。」

スーパーカー(1/12ポルシェ934ターボ)が無謀な挑戦によって作られた経緯は、『田宮模型の仕事』によると

『ポルシェに取材の申しこみその許可をいただくと、私はすぐにポルシェ本社のある西ドイツのシュッツトガルトへ飛びました。ポルシェは以前にもカレラ10を模型化したことがあり、約10年ぶりの取材となりました。
このときは、実際のポルシェが組みあげられていく工程を見せていただき、車の構造の”意味合い”が見えて、非常に面白く感じました。写真を撮っていくうちに、私は「待てよ、この製造工程をそのまま模型に取り入れたら、模型作りが何倍も楽しいものになるんじゃないか」と、思いました。(中略)
綿密に取材させていただいたものの、工場内では寸法を測ることはできません。そこで考えたのは、934のベースとなった911を調べれば、ボディシェルやエンジンの骨格がよくわかるはずだ、ということでした。
私は思いきって、ポルシェ911を買うことにしました。
乗るためではなく資料として買うのです。で、これをどうするかというと、分解するのです。911を自宅のガレージに運び、分解できるところは全部分解してしまいました。(中略)
バラしてしまったものの、素人なので元にもどすことはできません。しばらくして、ポルシェの整備員を呼んで、組み立ててもらいました。
バラバラになったポルシェを見た整備員は、目が点になっていました。彼は「あんたたち、なんてことをするんだ」とブツブツ言いながら、作業をはじめました。それはそうでしょう。さすがにプロでも、組み直すのに3日かかりました。』

発売されたスーパーカー(1/12ポルシェ934ターボ)ですが、番組では大絶賛と、プラス面のみ言われていますが。大きな落とし穴があります。

『さて、発売された1/12ポルシェ934ターボですが、なんとこれが振るわず、思うように売れてくれませんでした。あまりにも製作費をかけすぎたため、小売り価格が高くなってしまったのです。売れなかったもうひとつの理由は、世に出すタイミングが早すぎたことです。当時はポルシェに対する一般的な認知度が、まだ十分ではありませんでした。
しかし自動車ファンには大歓迎されました。組み立ててみて、”満腹感”があったはずです。(中略)
とはいえ、数千万円もかかってしまった金型の償却は、当時の私の肩に重くのしかかってきたのでした。』

ファンには大好評でしたが、営業的にはそれ程でもなかったと言うことです。そこからRCカーの登場となる訳ですが、本ではRCカーの誕生の経緯をこう書いています。

『そんなある日、私の仕事部屋の窓から、ブーンという音が聞こえてきました。外に目をやると、RC(ラジオコントロール)の飛行機が飛んでいました。(中略)
こうしてながめていても、けっこうあきないものです。とはいえ、エンジン音の大きさには閉口しました。
また別の日の昼どき、外出しようと駐車場へ行くと、今度は駐車場でRCカーをスイスイ走らせているのです。
「こんなところで、しょうがないヤツだな」と、あきれていたのですが、「ん?」と、おかしなことに気がつきました。
RC独特のエンジン音が聞こえないのです。不思議に思い彼に声をかけ、RCカーの構造を見せてもらいました。車のボディは、なんとタミヤの1/12スケールのF1モデルを乗せていました。シャーシを見ると、動力は乾電池だったのです。
なるほど、これなら静かなわけだ……。
これを見た瞬間、頭の中でパパパッといろいろなことがひらめきました。ひとつは電動のRCカーを出したら売れるのではないか、ということです。
それまでのRCカーといえば、もちろんエンジン動力です。騒音や油をまきちらすため、遊べる場所がかぎられていました。住宅街などで走らせたら、とんでもない近所迷惑になってしまいます。その点、乾電池とモーターなら音は静かです。排気もないから屋内でも走らせる事だって可能でしょう。
エンジンカーにくらべれば、値段も安く設定できそうです。短所となりそうなのは、スピードがそれほど出ないだろうということぐらいでした。
そしてなにより、RCカーのボディには、売れなかったスケールモデル、ポルシェ934の金型を流用すればいい!これは一石二鳥の好都合だと思いました。』

ポルシェのボディをそのままRCに流用した理由は、そんな理由があったのです。そしてRCカーを製品化させたのは滝文人氏。「タミヤRCカー・グランプリ」の「滝博士のハイテク講座」と言うコーナーを覚えていますか?番組では何故か一切触れていません(他局で放送されていたから?)。しかもRCカーの事をラジコンと言い続けていますが、タミヤはラジコンとは言いません。ラジコンとは、ラジオコントロールの略称で、タミヤでは名称をRCカーとかRCタンク等と言うのが普通です。
番組は重要な所をことごとく外しているのです。

「おかげで会社は急成長を遂げていった。それとはうらはらに、社長俊作には、寂しい思いがつのっていった。ラジコンは2・3万はする高価な物。小学生の小遣いでは、気軽に買える物ではなかった。
俊作『私の模型が、子供達から離れていく…』
俊作は、原点に戻る事を決意した。」

「昭和61年、タミヤは究極の本物志向の商品を世に送り出す。子供達を熱狂させ、社会現象にまで発展した、そう、あのミニ四駆である。」
色つきギヤ、銀色金具のタイプ1 「モーターや電池を付けても1000円でお釣が来る安さで、作りやすさも、接着剤を一切使わないはめ込み式。」
「しかし、その走りっぷりは、まさに感動的。」
「ラジコンで培ったノウハウを活かし、各地で大会を開くとブームに火が付き、レースに勝つ為の改造用パーツも同時に発売。そのままではなく、ちょっと手を加える楽しさ。レーサーやメカニック気分。」
現在のファイター。 「ミニ四駆は大人の世界へ背伸びする子供の本物志向を叶えたのだった。」
良く見ると、これはキットの素組みです!

「さらに、ミニ四駆はダンガンレーサーへと進化。相手の車を追い越したり、コースの外へ弾き飛ばすことも可能となった。レースは、よりエキサイティングに。」

(※この映像で使われているマシンは、良く見ると分かると思いますが未塗装の素組みです!)

「そして今、日本中の、いや世界中の模型店にタミヤのプラモが並んでいる。幼い頃、父親の仕事場のゴミから生まれたひとつの模型。そんな少年の夢は、今、世界中で星のように、キラキラ輝いている。」

自分が最も期待していた所ですが、残念ながらかなりの間違いや、個人的に?な所があります。
まず、
”ミニ四駆”が発売されたのは昭和57年。1982年の事です。昭和61年に発売されたのは”レーサーミニ四駆”なのです。ミニ四駆にもいくつも種類があることを、番組側は分かっていないようです。と言うか、ミニ四駆=レーサーミニ四駆系の物、と言う先入観がそうさせたのでしょうか。
次に、画面を見て見ると大会の画像は(コースを見る限りでは)グレートジャパンカップ97の物なのに、ミニ四駆を走らせているシーンはタイプ1時代の、初期のものなのはどういうことでしょうか。おそらく、第1次ブームと第2次ブームがあったことを知らないのかもしれません。
ちなみにコースを順に見ていくと、

ドラゴン・スプリントロード(直線の障害物コース)

サイクロンループ(円筒形のコースを周り回転数を競う)

ウルトラマッハサーキット(初代サーキットコース)

ドラゴンウエーブ(10メートルの直線とウエーブのコース)

せめて、レース画面は昔のものを見せて統一してほしかったです。(テレビ東京に提供してもらえば良かったものを…
さらに、改造用パーツ(グレードアップパーツ)は大会と同時に発売されたわけではありません。レーサーミニ四駆が発売されてすぐに出た、小学館・ワンダーライフスペシャル著「レーサーミニ四駆ハンドブック」に掲載されている大会規則によると

『競技車は四輪駆動で走行させます。ギヤーは各競技ごとに変えてもかまいません。
改造は禁止。ただしタイヤを削ったり、磨いたりするのはかまいません。(ただし、四輪全部)ボディへの塗装は自由』

まだパーツは発売されていなかった為、初期の大会では改造は禁止されていたのです(ただ、電池は制限が無かったので、ニッケル水素電池OKだった訳ですが…)。確かに、テレビなどのメディアで話題になったときには既にパーツも発売されていたので、マシン発売と同時にパーツも発売されていたのではと勘違いするのも仕方ないといえば仕方ないですけども…。

 

最後に、番組の感想とかを。
正直、15分で田宮模型の歴史を紹介するのは無理があったと言えます。1時間番組でおもちゃ、食玩、模型を紹介するくらいなら、3部に分けてひとつ1時間で放送すべきだったと思います。大体、おもちゃと言う枠組みの中に模型を入れるということ事体がおかしな話です。
しかも真実を捻じ曲げて放送するテレビ朝日の方針に、神経を疑わずにはいられません。テレビ朝日・朝日新聞は小林よしのり先生の「ゴーマニズム宣言」等を読んで頂ければわかるように、反日謀略結社と言われていますが、まさか模型の話に至ってもこのような事になるとは思ってもいませんでした。やはり中国の考えが植え付けられている証拠でしょうか。「テレビ朝日とはいっても、バラエティ番組は大丈夫だろう」という自分の考えは、今回の番組をもって打ち砕かれました。
とはいっても、映像の面でいえば収穫はありました。結構昔のタミヤサーキットを見ることができましたし(まだオフロードコースもなく、操縦台も粗末なものだったとは)、パンサー戦車が走っているのを見ることが出来たのも嬉しかったです。それに、98年に「RCカーグランプリ」や「爆走兄弟レッツ&ゴー!!MAX」が放送終了してから、実に6年振りにミニ四駆がテレビに映ったことは何よりの収穫でした。(特に、昔のコースを走る映像は嬉しかった!)
これを機に、ダンガンレーサーの人気が上がり、また、ミニ四駆の人気が再燃してくれれば幸いです。

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