ビートたけしのこんなはずでは!

〜おもちゃ界のウラ偉人伝・波乱万丈のタミヤ物語〜

 2004年1月24日、テレビ朝日系列で放送された『ビートたけしのこんなはずでは!』のタミヤ物語ですが、内容的にかなりの食い違いがあることが判明しました。やはりサヨクTV局・テレビ朝日なだけの事はあります。そこでテレビの画像と、ナレーションの文章を書き起こして、今回の番組の批評しました。すでに見た方も、見逃してしまったと言う方も、つたない評ですが読んでいていただければ幸いです。

※田宮俊作著・ネスコ発行『田宮模型の仕事』の文章を引用させていただく事を先にお断りしておきます。
※画像はテレビ画面をデジカメで撮影するというかなりアナログな手法をとっているため、画像が若干歪んでいます(笑)

この写真から特集はスタート。
タミヤを知る方ならピンと来るはずですが、ゲストの人の反応は、

「おもちゃの功績を残した人なんですか?」

(つД`;)

ご存知、星のマークのタミヤ模型。
↓次からナレーションの書き起こしに入ります。

「終戦直後の静岡市。俊作の父義雄は、戦後木材事業が増える事に目を付け、製材業を営んでいた。
だが、不幸にも火災に見舞われ、全財産を失ってしまう。予期せぬ悪夢。しかし、田宮家にはその逆境を乗り越える起死回生があった。」

(3月15日追記・テレビではこの写真がエフェクトで燃えるようになっていましたが改訂版によると、この写真は火災後に建てられた事務所となっています)

「それは息子・俊作の遊びがキッカケだった。なんとか再建した製材業。父が働くその傍らで幼き日の俊作は、木材の切れ端で何やら夢中で作っていた。」
俊作『できたぁ、ゼロ戦だ!ブーンブーン…』
「手作りの模型で夢中に遊ぶ俊作を見て、父・義雄はひらめいた!(中略)」
「木材を利用した模型キットを発売したのだ。」
「これが大好評!こうして、田宮模型は誕生した。」

 かなりの矛盾があります。
まず田宮模型の原形についてですが、『田宮模型の仕事』によると

『田宮俊作の父、田宮義雄は、戦前は運送業を営んでいた。しかし静岡大空襲により、事業の一切を焼失する。戦後は製材業に転身し、昭和21年、田宮商事を設立する。翌22年には木製木工部門(田宮模型の母体)を設立し、シベリアから復員した田宮文若(田宮義雄の甥)と2人3脚で事業を拡大。昭和28年には一般建築材の製材販売をやめ、模型専業メーカーとしてスタートを切る。』

これを読む限りでは昭和22年には木製木工部門から木材を利用した模型を売り始めていた事になります。さらに、こうも書かれています。

製材業だけでは食えないので、ひのき材の切れ端を利用し、地元の模型メーカーに卸していました。模型は学校教材としてかなりの需要があったのです。
やがて自社でも工作用の模型を製造するようになりました。最初は本立てや貯金箱。そのうち戦艦好きの知人に図面を書いてもらい、戦艦やグライダーも製造するようになりました。』

模型は大好評であったことが窺わせます。
しかし、ここには俊作の遊びから模型を発売したとはどこにも触れていません。まずここで「息子・俊作の遊びがキッカケだった」話はウソになります
さらに、ここからが問題です。火災についてです。

『ところが昭和26年、思わぬ災難がふりかかりました。私が高校2年生のとき、漏電で会社が火事になったのです。4キロ離れた我が家からも、真っ暗な闇夜に火柱が噴き上がっているのが見えました。』

木製木工部門が設立されたのは昭和22年。火事になったのは昭和26年
分かりますか?
つまり、火事になってから起死回生として木製模型を発売したと番組では言っていましたが、実際はその4年前からすでに木製模型を発売していたのです!
さらに画面を見ると、木製のゼロ戦で遊んでいる俊作氏は小学生に見えます。しかし昭和26年当時、俊作氏は高校2年生番組は、俊作氏は高校生になっても木材の切れ端で遊んでいたとでも言いたかったのでしょうか?田宮模型の社長に対して失礼です。
締めに、こうも書かれています。

『3ヶ月後、何とか操業を再開したものの、規模はずいぶん小さくなってしまいました。山のような借金をかかえてしまい、以前のように大量に木材を仕入れる事が出来なくなりました。2年後、模型専門メーカーに切り替えたのには、このような、やむにやまれぬ事情があったのです。』

番組は操業を再開し、木製模型を発売して大好評を博し、田宮模型は誕生したと言うような輝かしい所だけを繋げて勘違いをさせていますが、現実はやむにやまれぬ事情で田宮模型は誕生したわけです。

「昭和33年。息子俊作は、大学卒業と共に父を手伝い順調に成長していた。しかし、最初の悪夢が俊作を襲う。」
知人『田宮さん、知ってる?アメリカ産の模型はスゴいらしいよ』
「アメリカ産の模型を手に入れた俊作は、震える手を抑えながらその箱を開けた。初めて見るその素材に血の気が引くほどの衝撃を受ける。」
「それは、当時まだ日本には無かったプラモデルであった。」
「今までにないプラモデルと言う革命的な模型に大人から子供までもが飛びつき、木製模型は過去のものとなってしまった。」
俊作『これからは、プラモデルだ。』

こちらもまた、矛盾とは行きませんがおかしな所があります。
まず、プラモデルについてですが『田宮模型の仕事』によると

『プラスチックモデルの発祥の地は、戦前のイギリスといわれている。一般的に広く浸透するのは1951(昭和26年)、アメリカのレベル社が手がけるようになってからである。日本には昭和29年ごろから輸入されはじめた。またプラスチックモデルの国産第1号はマルサン商店の「ノーチラス号」で、昭和33年に発売された。また「プラモデル」という造語もマルサン商店によるもので、昭和34年に商標登録された。商標権はのちに、日本プラスチックモデル工業協同組合に譲渡され、現在は一般的な愛称として使用されている。』

ご覧のとおり、昭和33年にはすでに国産プラモデルが誕生していました。「当時まだ日本には無かった」と言うのはウソです。
次に、アメリカの模型を手にするのですが、アメ車の模型です。

『2ヶ月後、予約した戦車と戦艦の模型を受け取りに行きました。しかし戦艦のほうはありませんでした。』

俊作氏の購入したのはアメ車ではなく戦車と戦艦。
何故番組はアメ車を選んだのでしょう?木製模型と比較したかったからでしょうか?
さらに、番組では簡単に「これからは〜」と決心していますが、

『すごいと思えば思うほど嫉妬心が頭をもたげ、組み立てていくうちに腹立たしくなってきました。
(こんなものは模型じゃない、オモチャだ!)
木製模型に慣れ親しんできた私にとって、プラモデルは、あまりにも手軽すぎたのです。
(工夫したり手を加えるところなど、ないじゃないか)
と、自分に言い聞かせるようにその存在を否定しながら、とんでもないものが出現してしまった……と、不安な気持ちばかりがどんどんふくらんでいきました。』

俊作氏はかなり苦悩していたのが読み取れます。簡単に「これからは〜」なんて言えるはずが、ありません。

「木製用の機械を泣く泣く処分し、借金を重ねゼロからのプラモデル制作に打って出た。いちかばちかの大勝負だった。
そして昭和35年、その記念すべき第1号、戦艦大和が完成。
アメリカになんて負けてられないいう田宮魂と、これまで木製で培ってきた技術の全てが注ぎ込まれた。田宮初のプラモデルは、絶対の自信作であった。
ところが、何と1ヶ月前に他社から同じ戦艦大和が発売されてしまう。田宮の大和はさっぱり売れず、今の金額で1億円以上の大赤字。(中略)
子供『やっぱりこっちのほうがいいよなー。本物と一緒だもん。』
そう、本物と同じだったのだ。
このとき、俊作は本物志向に目覚めた。」

 このあたりは本とだいたい同じです。何故、戦艦大和にしたのかと言うと、『田宮模型の仕事』によると

『木製模型のころから、軍艦のタミヤとして親しまれてきましたし、また少年雑誌では戦記ものが人気で「武蔵」「大和」なら売れるという神通力があったのです。』

今でも、戦艦と言われて素人でもピンと来るのが「武蔵」か「大和」だと思われます。知名度は戦艦の中でも随一。ところが、その知名度を他の会社が見捨てる訳がありません。

『昭和35年。(金型屋の怠慢によって)予定より遅れに遅れましたが、やっと発売日のメドが立ってきました。ところが発売直前になり思わぬ事態が起こりました。私たちより一足先に、「戦艦武蔵」が発売されたのです。発売元は、ニチモという栃木にある模型メーカーでした。
いちばんあわてたのは、私たちが予定していた小売価格より、はるかに安いことでした。500円で売り出すつもりだったのですが、ニチモの製品はなんと350円でした。500円という設定は、ギリギリで安くしてつけた値段です。350円では赤字は必至です。しかしこのままでは、負けるのは目に見えています。赤字は覚悟のうえで350円に引き下げて発売することにしました。
結果は惨敗でした。
武蔵の金型を流用し、「戦艦大和」として出してもみましたがダメでした。縮尺の正確さは断然タミヤ製のほうがよかったのですが、当時はスケールにこだわる人はそんなにいません。(中略)しかも、ニチモの武蔵はウチのよりやや大きく、また吃水線の下の部分は赤く着色されていて色を塗る必要がない。アイディアの点でも負けていたのです。ニチモは、すでにプラスチック製の戦車でヒット作を出していたので、余裕があったのでしょう。
結局、500万円の大赤字でした。』

さて、ここまで読んで何か違和感はありませんか?
そう。
タミヤが最初に出したのは「戦艦大和」ではなく、「戦艦武蔵」だったのです。
他社(ニチモ)が出したのも「戦艦武蔵」。確かにタミヤは武蔵を流用して大和を作ってはいましたが、何故番組は大和にこだわって他社の武蔵も大和と勘違いしたのでしょうか。…もしかして、番組は『田宮模型の仕事』を読んでいないのでしょうか?

(3月15日追記・改訂版によると武蔵は現在タミヤには残っていなかったようで、大和をテレビに出したのはその為だったと思われます。しかし無いのなら無いで画像に注訳でも付ければいいものを、事実を捏造するとはどういうことなんだか…)

(2005年8月5日追記・タロンさんのご指摘で『田宮模型全仕事3』の編集過程で、最初に発売されたキットは戦艦大和だったことが判明したそうです。詳しくは『全仕事3』の編集に携わっていた方のサイトにも書かれています。それについてはこちらに。
資料などを細かく分析せず、ただ『田宮模型の仕事』を読んだだけで一方的に批判をして、スミマセンでしたm(__)m)

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